お寺の歴史

 楊柳観音堂と誓立寺
 「西原観音略縁起」によると、弘安六年(1283)武田信隆が安芸四郡を賜って下向する途次、近江絹川で馬の尾に食いつくものがあるのでみると、武田家に代々伝わる楊柳観音であった。信隆はこれを安芸に持ち来って金山の南の麓の粟原(青原)に安置した。その後暦応年中(1338~41)厳島社の平員家が武田氏を攻めた際兵火で焼けたため、一時金蔵寺信重の館に移し、ついで武田信栄が西原に移して安置した。そして、永正二年(1505)真宗に転じて寺号も尾喰寺(馬の尾に食いついたので尾喰観音ともいった)から清立坊に改めたと伝える。西区古江東町の誓立寺はその後身で西原の旧地(冬木神社境内)には楊柳観音堂が残る。)(郷土資料 安芸武田氏 広島祇園公民館発行)

誓立寺の御本尊
圓明院粟原山 誓立寺 本尊阿弥陀如来立像 一躯  所蔵 誓立寺 西区古江東町四番三十号 制作年代 室町時代中期 製作者 不明  材質 木造寄木造
寸法 造高 七六糎 頭部の螺髪はうず巻きでやや厚めみ造り髪際は直線的である また頭部は胴に差し込みにしてある。肉髻には肉髻相、額に白毫を置く。眼は玉眼、耳朶貫孔にして首は三道に造る。法衣は通肩にかける。右手は胸の高さに上げ
施無畏印を結ぶ左手は下に垂れ与願印を結ぶ 顔 胸 手等の膚は艶消しの彩色が見られる。もとは金色を施すがいまはほとんど脱落し今は左袂と胴の間に金色を残すのみである。刀彫の技法をよく表している。以上のように見ると制作時の彩色の手法、刀彫の技より見て室町時代中期を思わすものがあり、その時代の造像の良き資料となる。
昭和六二年三月発行 広島市教育委員会 社会教育部管理課広島市の文化財第卅六集「寺社什物調査報告より」

 古江説教場
 現在の誓立寺の地は、深信講の説教場であった。文化5年(1808年)為広家代18代半兵衛氏が碩学(宗学者)雲幢(うんどう)師を招請されて(幻華庵)を私費を投じて建立され、以来雲幢師の高徳は遠近に流布し、師事する師弟は百有名に及んだ。その後幻華庵を(幻華社)と改称、幻与館ともいった。明治6年6月6日古田小学校の起源ともなった。明治35年(説教場)に改称、昭和17年(教会)に改名され現在の誓立寺になる。
深信講
はじめ、万人講と称す。明治14年深信講に改称される。明治14年以来毎月3日以上の法座をもつことを義務づけて護法、聞法に精進された。

深信講の巻物
今般其地において毎月寄合相催され法義相続の上より年々冥加の志上られ 候事各兼て法義深厚神妙の至りに候 依って此度寄合相続のため印書成し下され末々迄退転なきように出精せらるべく候、誠に当流安心の一途は何之ようもなくもろもろの雑行雑修自力 の心を捨てはなれ一心に阿弥陀如来今度の一大事の後生たすけ給えへと深 くたのみ奉れば不可思議の願力によりて一念の立所に光明摂取の大益を蒙 り順次報土往生を遂しめ給ふこと疑いあるべからず候 此信決定の上には王法国法仁義五常の道を守り存命の間は美しき法義油断 無く相続せられ佛恩報謝の称名相嗜れ遂らるべく今度の報土往生の素懐事 肝要に候也
明治十五年二月十五日   広島県下安芸国佐伯郡古江村 深信講同行中

現在深信講のご本尊と共に伝わるこの巻物を上記の通り文字を現代文にして頂きました。誓立寺歴史の宝物として保管されています。